洋光台キリスト教会は1972年に磯子区栗木に会堂を建築して、この地での宣教活動を開始しました。2005年12月には新しい会堂を建て、信仰の喜びを持って活き活きとした活動を行っております。
日曜日の礼拝だけでなく、平日にも集会があり、さまざまな世代の方々が積極的に参加しています。
人生は良く航海にたとえられますが、航海には喜びとともに様々な困難が伴います。
荒波にもまれて疲れ果ててしまう時、方向を誤り迷う時、そして行き先の確かさを失う時、そのような時には、どうか気軽に門をたたいてください。教会はクリスチャンだけでなく、どなたでも参加できるところです。私たちはすべて神様によって命が与えられ、神様の愛のみ手によって支えられている兄弟姉妹なのです。教会の集会に出席されることによって、よい友を得、愛の神様を発見してください。
そして、ご一緒に聖書を開いてみましょう。きっと、まことの平安を与えてくださるイエス・キリストにお会いできるでしょう。
私たちの人生にスペアはありません。たった一度の、この人生を豊かにするために聖書の言葉に耳を傾けてみませんか。
心からあなたのおいでを、お待ちしております。なお、信仰の強制はございませんので、お気軽におでかけ下さい。
洋光台キリスト教会は日本バプテスト連盟に所属するプロテスタント教会です。
日本バプテスト連盟とは、個人の主体的な信仰を大切にする教会(プロテスタント)が、協力して伝道に取り組むために1974年に結成された教会の協力体で、およそ全国で約330の教会が加盟しています。
洋光台キリスト教会は1972年に宣教活動を開始して以来、“横浜全区にバプテストの教会を”とのビジョンのもと、教会を生み出す群れとして伝道を中心とする働きを進め、横須賀長沢キリスト教会、港南めぐみキリスト教会、鎌倉台教会(旧鎌倉台伝道所)を生み出してきました。また、種々の協力伝道などによって、戸塚区、青葉区、旭区、都築区にも教会が建てられ、宣教の広がりが実現しております。
そのような働きの中で、洋光台キリスト教会は群れの充実・成長と共に、視野をさらに広く世界に向け、宣教の働きを担うことが主より求められ期待されていることを受け止めて、牧師を中心として宣教活動を続けております。
洋光台キリスト教会は、横浜市中区仲尾台にあります 『横浜国際バプテスト教会』の日本語部がその始まりです。
1963年、J.ミラー宣教師がバイブル・クラスに出席する青年たちを集めて日本語部を組織し、礼拝が始まりました。その後、谷川陽先生が6年間日本語部を指導しました。
1972年、金子敬先生が牧師として就任し、現在の磯子区栗木に会堂を建築して、この地での宣教活動が始まりました。1990年には蛭川明男牧師、2015年には萩原永子牧師が就任し、現在は萩原牧師により、活発な布教活動を展開しています。
この間、教会や牧師を生み出しています。
また、2006年1月には現在の新会堂を建築し、礼拝や各種集会のほか結婚式や葬儀等も執り行っています。
年 | 主な出来事 |
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始まり | 横浜国際バプテスト教会の日本語部を組織 |
1963年 | Jミラー宣教師が日本語部を組織 |
1972年 | 金子敬牧師就任 |
1972年 | 横浜市磯子区栗木に会堂建築 |
1990年 | 蛭川明男牧師就任 |
2006年1月 | 新会堂建築 |
2015年6月 | 萩原永子牧師就任 蛭川牧師と萩原牧師による複数牧会開始 |
2022年3月 | 蛭川牧師退任 |
年 | 主な出来事 |
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1975年 | 萩原 永子(はぎわら のりこ)誕生 |
1998年3月 | 東京基督教大学神学部神学科卒 |
2001年3月 | 東京基督神学校卒 |
2001年4月〜2002年3月 | 洋光台キリスト教会伝道主事 |
2002年4月〜2015年5月 | 清水栄光キリスト教会牧師 |
2015年6月 | 洋光台キリスト教会牧師着任 |
聖書をひらくと、そこには、どうしようもない人間のドロドロしたドラマが記されてあります。
滑稽で、哀しい、私たち自身の歩みと、どこか重なります。
聖書には、同時に、そんな人間そのものを愛さずにはいられなかった神さまが垣間見えます。
洋光台キリスト教会を通して、「あなたを愛さずにはいられない神様」に出会っていただければ、幸いです。
萩原 永子
「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」詩篇第133篇1節
この聖書箇所は、今年度、教会の年間主題に掲げている聖句です。
詩篇133篇は麗しい「兄弟愛」を詠っています。ここで言う「兄弟」は、元々は血縁関係にある兄弟を指していましたが、歳月を経る中で拡大解釈されていきました。実際に血を分けた兄弟に限らず、共に生きるこの社会で、「人と人とが、仲睦まじく過ごすことが出来るのは、何と素晴らしいことだろうか」、「共同体が、一致していることは、何と麗しく、楽しいことだろうか」と、解釈されていったのです。この詩が示す「一致」は、個性が押しつぶされた一致ではありません。個性をもった一人ひとりが「一緒に」生きている様子を詠っています。新約聖書においては、この有様を、「教会のあるべき姿」として、追い求め続けてきました。
「個性をもった一人ひとりが一緒に生きていく」、それも「仲睦まじく生きていく」ということが、どれ程難しいことか、私たちは、それぞれに体験的に知っているでしょう。教会は神の家族。聖書はそう語ります。でも、生身の人間である私たちが織り成す人間関係は、血を分けた家族だろうが、他人だろうが、美しいとは限りません。真面目な人であれば、受け入れがたい相手がいる自分をこそ赦せなくなり、苦しむ時もあるでしょう。